三河・則定城主の鈴木重次の子。幕府の旗本から曹洞宗の僧侶となった。仮名草子作家でもある
長男だったが別家を興し、家は弟・重成が継いだ。父が
徳川家康に従い、関ヶ原の戦いで
本多正信隊に参加して初陣を果たす
大坂の両陣でも武功を挙げ、二百石の旗本となる。その後大坂城番のとき、同僚の儒学者と論争して、翌年に遁世し出家
臨済宗や曹洞宗に参禅した後、故郷で石平山恩真寺を創建した
島原の乱後に天草の代官となった弟・重成の要請で天草へ布教。『破切支丹』を執筆してキリスト教の教義を理論的に批判した
晩年は江戸・四谷の重俊院、牛込の了心院を拠点に布教
島原住民への重税に抗議して切腹した弟・重成の後を継いだ正三の実子・重辰を後見
島原の復興事業にも尽力した