僧侶・忍者等 戦国本の登場人物の紹介
上総介の読んだ戦国本に登場する人物を紹介。主人公や脇役の紹介はこちら

あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行
武将の妻・子
 商人・文化人 天皇・公家 僧侶・忍者等 外国人

朝山日乗 あさやまにちじょう (日乗朝山)
日蓮宗の怪僧、出雲出身の天台僧という説もある、出家の際に後奈良天皇から上人号をうけ、宮中に出入りした、足利義昭と織田信長の調停などに活躍、のちに信長へ宣教師ルイス・フロイス追放を要求、信長の命でフロイスやロレンソと宗論を行い、敗れて激怒してフロイスに刃を向けて信長に一喝された、正しくは日乗朝山(ちょうざん)で、朝山は姓ではない

意休 いきゅう (前田利則)
前田利隆の子、前田利家の叔父、出家して意休と号し、浄土宗速念寺初代となった

惟杏 永哲 いきょうえいてつ
臨済禅僧、天正から慶長年間に京都で禅風を挙揚した、その法語集として「惟杏哲和尚疏」等がある

今井 豊寿 いまいひょうぶきょうほうじゅ
大和・今井町の石山本願寺僧侶、今井兵部卿豊寿、今井町は彼が真宗寺院の称念寺を開き、南大和の自治経済都市として今井町が栄えた

鵜飼 孫六 うかいまごろく
甲賀忍者、甲賀五十三家、鵜飼源八郎の一族といわれる

奥蔵院 道栄 おくぞういんどうえい
宝蔵院胤栄の高弟、宮元武蔵の挑戦を受けてたった

園阿上人 おんなじょうにん
越前・称念寺の住職、明智光秀を朝倉家に推挙したという

海実 かいじつ
箱根権現別当、小田原・大森氏の縁戚といわれる、北条早雲の三男・長綱に別当職を譲った

快川 紹喜 かいせんしょうき
武田信玄の帰依をうけ武田家の菩提寺である恵林寺の住職となる、正親町天皇から国師の称号を与えられる、武田勝頼が織田信長に滅ぼされた時、武田残党をかくまったことから信長の怒りを買い、僧百余名と共に焼き殺された、この時、快川が唱えた「安禅は必ずしも山水をもちいず、心頭滅却すれば火も自から涼し」が有名である

覚恕 かくじょ
天台座主、織田信長の比叡山焼き討ちを逃れ、駿河で武田家にかくまわれた

樺山 常陸坊 かばやまひたちぼう
樺山常陸坊浄慶、山伏、木崎原の戦いで伊東軍が進軍するのに気付き、加久藤城へ大声で知らせて、子二人とわずか三人で迎え撃ってしばらく支えた後に討ち死にしたという

唐沢 玄蕃 からさわげんば
真田家の忍び、真田昌幸・信之に仕えた、長篠の戦いに参加している

岐秀 ぎしゅう
甲斐・臨済宗長禅寺の和尚、武田晴信が出家するとき機山信玄の法名を贈った

教如 きょうにょ
本願寺第十一世顕如の嫡男、幼名・茶々丸、諱は光寿、織田信長との石山合戦では父・顕如と共に戦う、信長と顕如の和議後も徹底抗戦を主張し本願寺に立て籠もり最後まで抵抗した、顕如没後に本願寺住職となるが内紛により豊臣秀吉の干渉を受け辞職、秀吉没後に徳川家康の保護を受け東本願寺を建立した

玉仲 宗e ぎょくちゅうそうしゅう
大徳寺の僧侶、日向・櫛間院に生まれ、大徳寺の第百二十世となる、正親町天皇より仏機大通禅師の号を賜った高僧、小早川隆景と関係が深く、伴なって有馬温泉に浴したり、隆景の寿像の讃を宗eに請うたりしている

圭海 けいかい
天台宗の大僧都、もともと月窓と称した法華僧であったが、姉が三大将軍・徳川家光の側室(四代将軍・家綱の生母宝樹院)となりお世継ぎを生んだため、幕命によって天台宗に転じた

景轍 玄蘇 けいてつげんそ
臨済宗・博多聖福禅寺の僧、父は河津隆業、文禄の役に際し宗氏に頼まれ終始朝鮮側と折衝を行った、小西行長軍に従って渡鮮し和平のために奔走する、秀吉の命で中国の明に渡り、明の万暦帝から本光国師の号を賜った、徳川幕府時代にも朝鮮外交を担い己酉条約を成立させた

月清 げっせい
清水宗治の兄、清水家の嫡男に生まれながら武事がきらいで、弟の宗治に家督を譲る、その後は出家して弟の寄食者となり歌など詠んで気儘にすごす、しかし羽柴秀吉の高松上攻めでは入城して籠城、宗治の切腹が決まると自ら共することを決めた、水攻めされた水上の船で自刃

顕忍 けんにん
伊勢長島の願証寺五代住持、四代・証意の子、織田信長による長島一向一揆討伐軍の攻撃を受け戦死した

玄圃 霊三 げんぽれいさん
南禅寺第二百十六世住持、のちに聴松院の主となった、豊臣秀吉の外交顧問として活躍し、唐入りの際には肥前・名護屋の陣へ同行し明国の使者と講和交渉を筆談で行った

玄隆西堂 げんりゅうさいどう
東福寺の僧、豊臣秀次の碁将棋の相手、秀次の謀叛の罪による自刃の際に自ら望んで一緒に自刃した

晃運 こううん
信州・真田の長谷寺の僧、もともと上州・後閑の長源寺の僧であったが、武田・村上・諏訪の連合軍に追われ上州へ逃れた真田幸隆と懇意となる、のちに幸隆が武田信玄に旧領を安堵され小県郡に復帰したときに信州・真田の長谷寺の開山となった。

光國和尚 こうこくおしょう
三河・泉龍院の住職、伊豆・下田の武門の出、菅沼定則に法号を授けた

匂坂 甚内 こうさかじんない
野盗の頭領、幼名・甚太郎、高坂弾正昌信の一子といわれ、武田家滅亡後に祖父に連れられ摂津・芥川に住んだ、宮本武蔵に弟子入りし江戸に出て、腕だめしの辻斬りをやり金を奪ったため破門されたといわれる、仲間を集めて箱根で山賊の頭領になったといわれる、最後は役人に捕まり磔にされた

孝蔵主 こうぞうず
豊臣秀吉の正室・高台院近侍の尼僧、蒲生家の臣・川副勝重の子、出家して孝蔵主と称す、豊臣秀吉に仕えて高台院の信任を得る、秀吉の没後は高台院に従い京に隠棲した、徳川家康と親しかったため徳川秀忠に仕え、河内に二百石の知行を与えられる

上月 佐助 こうづきさすけ (下柘植ノ木猿)
百地丹波傘下の下忍、伊賀十一忍衆の一人、伊勢・下柘植郷出身、身が軽く樹木に隠れるのが特技だったので下柘植ノ木猿と呼ばれた

古渓 こけい (宗陳)
臨済宗大応派の僧、越前の人で俗姓は朝倉氏、字・古渓、号・蒲庵、はじめ曹洞宗宏智派で学んだが、のちに京都大徳寺で笑嶺宗訴に参じてその法を継ぎ大徳寺の住持となった、豊臣秀吉が織田信長の墓所として大徳寺内に営んだ総見院の開祖となったが、天正寺の造営に関連して秀吉の怒りに触れ、筑前博多に配流された、のち許され帰洛し、洛北市原の常楽庵に退居したが、秀吉の弟・秀長の供養のため大和郡山に創めた大光院に住し、さらに和泉堺お南宗寺に移り、海会寺を再興した、博多にあっては島井宗室・神屋宗湛、堺においては千利休・今井宗久など商人と密接な関係を持った

虎哉宗乙 こさいそうおつ
臨済宗開山派の僧、美濃生まれで俗姓は福地氏、美濃東光寺の岐秀元伯の学び、諸方歴参ののちに美濃崇福寺の快川紹喜に師事し首座を勤めた、米沢城主・伊達輝宗の招きに応じて、米沢資福寺に住し、のちに京都妙心寺の住持となった、その後美濃瑞竜寺・佐野天徳寺・玉雲寺・資福寺を歴任し、伊達政宗を開基として出羽遠山に覚範寺を開いた、下野・雲岩寺住職の大虫と共に「天下の二甘露門」と讃えられた高僧で、政宗の師として仏教や漢学を教えた

西笑承兌 さいしょうしょうたい
臨済禅宗、京の真如寺で出家、のち仁如集堯・叔原宗管などに参学、相国寺の住持となり中華承舜の法を嗣ぐ、その後相国寺第九十二世を継ぎ寺内に心華院を開祖し、鹿苑院に移って僧録職第四十四世となった、のちに南禅寺に進み義輝二十五年忌仏事や義昭の法要を行った、文禄・慶長の役では明の講和使節の冊封を読んだ、朝鮮派兵によって持ち帰った敵兵の鼻を埋めた鼻塚供養の導師を勤め、朝鮮の役戦没者の大施餓鬼の法会を京の方広寺大仏殿の前で行った、秀吉没後は徳川家康に従い、日鮮和議の締結や外国通航の朱印制度の設置に関与、家康の書籍刊行事業にも従事する、こののち再び鹿苑院で僧録司となったが、晩年は相国寺内の豊光寺に退居し没した

佐田 彦四郎 さだひこしろう
毛利元就の侍大将 杉原播磨守盛重に仕えていた忍者、佐田甚五郎・佐田小鼠の兄、彦四郎は「孤狸の変化」と呼ばれる程の技前であったらしく、多くの弟子を持っていたという

薩天 さつてん
九戸一族の菩提寺・長興寺の住職、九戸政実の恩師、九戸の乱で豊臣軍からの使者として赴き、城兵の助命を条件に降伏を説得した、しかし降伏した九戸政実以下八名の武将は斬首され、城兵も皆殺しにされたため三戸城前で自殺したという

三要 元佶 さんようげんきつ
臨済禅僧、肥前小城郡晴気付村に生まれる、幼時に京都円通寺の金庭について漢学を学んだ、のちにその命によって足利学校の九世の庠主となった、徳川家の寵遇を得て足利学校を中興し、さらに京都伏見に円光寺を開創、のちに円光寺を相国寺内に移し、家康の命によって金地院崇伝・板倉勝重らとともに諸寺の訴訟を処理した、鍋島勝茂は小城に医王山三岳寺を開創し開山に招く、家康も駿府に円光寺を開創した、その後南禅寺の住持となり、駿府の円光寺で没する

四井 主馬 しいしゅめ
初め甲斐・武田氏に仕えた忍び、加賀忍びの頭目となる、前田利家直属の隠密事を請け負う影の軍団長

七里 頼周 しちりよりちか
加賀における本願寺光佐の代官、一向一揆軍の要請で富田長し下長繁を討った、織田信長の越前一向一揆征伐軍に降る、光佐の命により、加賀・松任城の鏑木頼信を討った

実了師慶 じつりょうしけい
長延寺の天台宗の高僧、武田信玄の咄衆を務め外交僧としても活躍した、武田家滅亡後に信玄の次男・武田信親の子・信道をかくまった

拾阿弥 じゅうあみ (愛智拾阿弥)
織田信長の同朋衆、尾張の土豪・愛智氏の一族、前田利家の笄を盗んだことで争いとなり、利家に斬殺された

周ロ しゅうこう
足利義晴の側室の子、足利義輝の弟、幼少時に出家し周ロと称す、義輝が松永久秀・三好三人衆に殺害されると捕らえられ殺害された

春屋宗園 しゅんおくそうえん
臨済宗大応派の僧、俗姓は園部氏、大徳寺の笑嶺宗訴の法を継いで大徳寺住職となる、のちに和泉堺や南宗寺や筑前・崇福寺にも住し、堺に薬泉寺、近江佐和山に瑞獄寺を開創、大徳寺に石田三成・浅野幸長・森忠政の三人を開基として三玄院を、三木重棟を開基として貞岳庵を創めた、春屋はほかにも黒田孝高・金森長近・千利休・千道庵・千少庵・古田織部・津田宗及・小堀遠州などから帰依をうけており、正親町天皇から朗源天真禅師の号を、後陽成天皇から大宝円鑑国師の号をうけた

春浦宗熈 しゅんぽそうき
京の名刹・大徳寺の第四十一代住職

証意 しょうい
浄土真宗本願寺派の願証寺の住持、三代・証恵の子、織田信長による長島一向一揆討伐軍の攻撃を受け、子で五代・顕忍(佐尭)が討たれて断絶した

証恵 しょうえ
浄土真宗本願寺派の願証寺の住持、二代・実恵の子、父の死後に祖父で顕如六男・蓮淳の後見を受け願証寺を継承した

清胤法院 しょういんほういん
高野山無量光院の住職、高野山随一の碩学、上杉謙信の招きで一時越後に滞在、上杉謙信が剃髪したときに導師となった

松花堂 昭乗 しょうかどうしょうじょう
真言宗の僧侶、摂津・堺出身、幼名・辰之助、兄が聡明さを見込まれて興福寺別当一乗院門跡坊官・中沼家に迎えられたため、兄に従って奈良に移り中沼を称す、中沼式部、若くして出家し密教を学ぶ、瀧本坊実乗に師事し実乗死後に跡を継ぐが、のちに弟子に譲って住坊泉坊の一隅に方丈を建てて松花堂と称した、書道、絵画、茶道奥義を極め、特に書道は独自の松花堂流(滝本流ともいう)という書風を編み出し、近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称せられた、また松花堂弁当でも有名

聖護院 道増 (しょうごいんどうぞう)
聖護院二十五代門跡、近衛尚道の子、将軍・足利義輝の命で安芸・毛利氏と出雲・尼子氏の間の調停を行うが失敗、毛利氏と豊後・大友氏との和議を調えた

湘南和尚 しょうなんおしょう
山内一豊に拾われた捨て子、一説に一豊の家臣・北村十右衛門の三男を捨て子として拾って育てるようになったともいう、幼名・拾、十歳のとき山内家連枝という身分で仏門に入る、一豊の一人娘・与祢の墓のある妙心寺本山で南化国師の弟子となる、のちに一代の学僧となり湘南和尚と称した、山内家が土佐に移封されたのちに妻・千代に引き取られ、五台山吸江寺を建立し百三十石を寄進された

笑嶺宗訴 しょうれいそうきん
大徳寺第百七世、三好義嗣の命で三好長慶の菩提を弔うため聚光院を建立、聚光院は千利休が檀家となって以来、茶道三千家の菩提所となる、信長の葬儀のときに秀吉が信長の嗣子を冷酷に扱ったため、僧衣に短刀を隠して刺殺しようとしたといわれる

杉ノ坊覚明 すぎのぼうかくみょう (杉ノ坊覚算)
根来寺の僧兵、津田監物算長の兄、一説に弟ともいわれる、根来寺を代表して種子島時堯に伝来銃割愛を要望し、弟の監物を使者として向かわせた

清韓文英 せいかんぶんえい
博学能文ほまれ高い南禅寺長老、京都方広寺の鐘銘事件の作者、その責任を感じ大坂夏の陣で豊臣秀頼とともに自害する

清玉 せいぎょく
近江坂本の阿弥陀寺を創建した、織田信長に帰依を得て上京今出川大宮に移転、本能寺の変nのちに、織田信長・信忠親子の遺骨を持ち帰って阿弥陀寺に葬ったという

宗清 そうせい (以天機雪)
北条氏の外護をうけ小田原早雲寺の開山となった臨済禅僧、号は以天機雪とも称す、山城の生まれ、臨済宗大徳寺派の東海宗朝について参禅修行し、その法を継ぐ、のちに大徳寺第八十三世として住した、相模の北条氏が小田原に金湯山早雲寺を建立すると、その開山として招かれた

大覚寺 義昭 だいかくじぎしょう
室町幕府第三代将軍・足利義満の子、真言宗の僧侶で大僧正・大覚寺門跡・東寺長者を務める、日野重光の養子として養育された、その後大覚寺に入って出家した、第六代将軍を選ぶ際の候補となる、将軍・足利義教の恐怖政治により、秘かに大覚寺を出奔し、土佐の国衆・佐川氏に保護され、その後九州に移って還俗、「尊有」と称して日向の国衆野辺氏に保護される、日向・薩摩守護の島津忠国に義昭討伐が命じられ、櫛間永徳寺で包囲されて自害した

太年尼 たいねんに
太原雪斎の姉、駿河志太郡葉梨村長慶寺の尼僧、雪斎が晩年病身となったとき、長慶寺に引き取り看病をした

大竜 だいりゅう (海山元珠)
臨済宗・妙心寺派の高僧、加藤家を浪人した塙団右衛門(鉄牛を称す)を弟子とした、方広寺鐘銘事件では、天海と崇伝による豊臣家への言いがかりに対して、各界の学僧たちが媚びて同調する中、。「愚にもつかぬひがごと」と一人正論を言い切った気骨の人

沢庵 宗彭 たくあんそうほう
江戸初期の臨済宗の僧、大徳寺の住持となる、紫衣事件で幕府に抗弁書を提出したことを咎められ、出羽に配流された、後に許されて京都へ帰る、柳生宗矩の勧めにより三代将軍家光の相談役となり、品川に東海寺を興した、書画・俳諧・茶にも近しかった、タクアン漬けは彼の発案

太宰 金助 だざいかねすけ (太宰金七)
伊達家の忍・黒脛巾組、豊臣秀吉の奥州仕置の後、伊達成実に仕えて姓を太細と改めた

湛光 風車 たんこうふうしゃ
乱波大将軍風車といわれる普化禅宗の僧

筑阿弥 ちくあみ
織田信長の同朋衆、豊臣秀吉の母・なかと再婚した、秀吉と仲が悪く地元の寺に奉公に出した

長海法印 ちょうかいほういん
密教の行者、米沢城の近くの亀岡文殊堂で行を行った、伊達輝宗正室・義姫の男子出産などを祈願したという

通天存達 つうてんそうたつ
坂戸城主・長尾政景の兄、景勝の伯父、足利学校を卒業、のちに雲洞庵十三世となる、上杉景勝・直江兼続二人の学問の師

天室光育 てんしつこういく
長尾家の菩提寺曹洞宗・林泉寺六世住職、上杉謙信を幼少の頃から指導した恩師、住職の座を弟子・益翁宗謙に譲って退隠、その後柿崎景家の招きで楞厳寺を建立してその住職となった

東岳栄俊禅師 とうがくえいしゅんぜんし
蜂須賀正勝の庶子であり、北畠具教の胤といわれる、少年のころから義父・正勝に従って出陣し、軍功をたてて信長から賞を賜った、十七歳で出家し南禅寺で禅を学ぶ、普門西堂とも称し、その徳風は徳川家康の知るところになり鎌倉禅興寺に招かれたこともあったが固辞した、蜂須賀家政の阿波入国に従って参謀となり、家政の朝鮮出兵や関が原後の阿波返上などでは家政の代理を勤めた

道哲 どうてつ
浄土宗西方寺を開山した僧侶、一説に僧侶ではなく寺男であったともいう、道哲は人情に厚かったため、遊女が死んだあとで浄閑寺などに投げ込まれることを哀れみ、発見次第ねんごろに埋葬してやったという、そのため時の遊女・高尾は道哲の人情の厚きに感激し、その果ては恋に落ち入ったと伝えられている、また高尾と恋仲に陥って破戒したから、道哲は西方寺の開山でなくして第二祖ともいわれる

東陽坊 長盛 とうようぼうながもり
社家出身、晩年に千利休の弟子となる、海北友松と共に斎藤利三の首を奪い真如堂に葬る、真如堂塔頭東陽院の開祖

内藤 ジュリア ないとうじゅりあ
内藤ジョアン忠俊の妹、日本最初の女子修道会「都のベアタス」を京都に創設した、徳川幕府の禁教令で逮捕された

南渓和尚
遠州・龍漂寺の住職、幼い井伊虎松(のちの直政)を匿い、のちに徳川家康に推挙した

南化国師 なんげこくし
山内一豊の娘・よね姫の墓のある妙心寺本山の僧、一豊の次子・湘南和尚の師

南陽坊 なんようぼう (日護坊、日運)
法華宗の本山のひとつ京都妙覚寺の学僧、美濃守護代・斉藤妙純の四男、斉藤彦四郎の弟といわれる、日護坊ともいう、妙覚寺の兄弟子・法蓮坊が後の斉藤道三、修行ののち美濃に帰り鷲林山常在寺の住職となり日運と称した

芭蕉 ばしょう
伊達家の忍・黒脛巾組、虚無僧、政宗の命で諜報活動を行った

八百比丘尼 はっぴゃくびくに
人魚の肉を食べて不老長寿になったという伝説の尼僧、諸国をまわって病人を癒し、川に橋を架け、貧しい人を助けて田畑を耕し、行く先々で椿を植えたといわれる、八百歳まで生きたといわれる

早田 道鬼斎 はやたどうきさい
愛宕山・福寿院の修験者、十六里を6時間で走れた健脚の持主、京から本能寺の変を丹後宮津城の細川藤孝に伝えたといわれる

伴 与七郎 ばんよしちろう
甲賀忍者、徳川家康に仕えたといわれる

ペドロ 岐部 ぺどろきべ
キリシタン神父、有馬の神学校出身、徳川家康の禁教令により外国人宣教師とともに出国してマカオに渡る、その後印度のゴアに渡ってアラビア砂漠を隊列に混じって日本人で初めて砂漠を渡りエルサレムにいく、パレスチナから船でローマに渡り、グレゴリイ大学で学ぶ、優秀な成績で神父に叙品された、その後帰国して長崎に潜伏、以降かくれ切支丹の助けをかり東北でひそかに布教した、しかし発見され幕府の宗門改役・井上政重の拷問を受け死亡した

鵬雲文翼 ほううんぶんよく
田峯菅沼定忠の次男、足が不自由であったため仏門に入った、三河設楽郡永住寺の開基

彭叔守仙 ぼうしゅくしゅせん
京都の東福寺の僧侶、毛利元就の実名名づけ親

宝蔵院 胤栄 ほうぞういんいんえい
奈良・宝蔵院主、但馬胤永の子、新陰流刀槍術を上泉信綱から学び、その後神道流・成田盛忠から槍術を学ぶ、また新当流槍刀槍術を大西木春見に学んだ槍の名手、穴沢流・穴沢盛秀の助力を受けて宝蔵院流十文字鎌槍を興した

宝蔵院 胤舜 ほうぞういんいんしゅん
奈良・宝蔵院主、山城国の郷士の出身、先代の胤栄が創始した十文字鎌槍を用いる宝蔵院流槍術を完成させ、裏十一本式目を制定した

守矢 頼真 もりやよりざね
諏訪大社の神長官、守矢満真の子、武田信玄のために祈祷殿に籠って高遠攻めの戦勝祈願を行った

門察 もんさつ
栃尾の曹洞宗・常安寺住職、上杉謙信の幼少時の学問の師

ヤジロウ (弥二郎)
罪を犯してポルトガル船でマラッカに向かう、マラッカでフランシスコ・ザビエルに会い、日本人として初めて洗礼を受ける、日本への伝道師としてザビエルとともに日本で布教活動を行った

柳原 戸兵衛 やなぎはらとへえ
伊達家の忍・黒脛巾組の頭目、安部対馬守重定の配下で関ケ原の頃に頭目となり黒脛巾組五十人を統率した

吉田 兼見 よしだかねみ (吉田兼和)
京都吉田神社の神主、吉田兼和、朝廷の使者として権力者と接触する機会が多く、当時の政治・社会・文芸等がわかる貴重な史料「兼見卿記」を記した、細川藤孝や明智光秀と関係が深かった

蘭叔 宗秀 らんしゅくそうしゅう
大徳寺百四十世、古渓宗陳の弟子、島津義弘の子、庶子であったため家督は弟の家久が継ぎ、早いうちから京に出て僧侶となっていた

竜全 りょうぜん
丹後の守護・北野一色式部少輔持範の嫡男、一色太郎吉康、幕命で尾州叛徒討伐に父・持範と叔父・義貫とともに向かったとき、乱軍中に流れ矢にあたり失明、出家して竜全と称した

隆渓 りゅうけい
曹洞宗の禅僧、隆渓繁紹、伊豆・修善寺住職、北条早雲の叔父

ロレンソ
日本人修道士、本名了西、肥後で生まれたといわれる、片眼は全盲で他眼は半盲の琵琶法師、フランシスコ・ザビエルと出会い影響を受け洗礼、ザビエルが日本を離れたあとはガスパル・ビレラに従って上洛、足利義輝の認可を受け布教した、のちにルイス・フロイスとともに織田信長に謁見し京での布教の許可を得た、フロイスとともに朝山日乗と宗論をかわしたことは有名、豊臣秀吉にも謁見し、晩年は肥前国大村で説教を続けながら余生を送った


*印は著者の創作人物または実在したかどうかは不明な人


あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行
武将の妻・子
 商人・文化人 天皇・公家 僧侶・忍者等 外国人

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