ら行の登場人物 戦国本の登場人物の紹介
上総介の読んだ戦国本に登場する人物を紹介。主人公や脇役の紹介はこちら

あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行
武将の妻・子
 商人・文化人 天皇・公家 僧侶・忍者等 外国人

龍造寺 家久 りゅうぞうじいえひさ
龍造寺家の分家水ケ江龍造寺当主、龍造寺長信の子、直茂長女千鶴を迎えて直茂の娘婿、関ヶ原の折には西軍につきながら家康に大量の米を目録に記して贈った、将来は鍋島の柱石となる男と誰からも期待される、後の佐賀藩執政・多久長門安順(やすとし)

龍造寺 隆房 りゅうぞうじたかふさ
龍造寺政家の子、幼名藤八郎、龍造寺氏第二十一代当主、父政家が秀吉の命で隠居させられ五歳で家督を嗣ぐ、しかし実権は鍋島直茂の手にあった、その後徳川秀忠に仕えるが、突如夫人を殺害して自らも切腹した

龍造寺 秀明 りゅうぞうじひであき (龍造寺伯庵)
龍造寺高家の庶子、徳川家光に対して鍋島藩領は龍造寺氏のものであると主張し、再三にわたって鍋島氏による乗っ取りを訴えるが却下された、のちに会津藩預かりとなり、子孫は幕末まで会津藩に仕えた

龍造寺 政家 りゅうぞうじまさいえ
龍造寺二十代当主、龍造寺隆信の子、民部大輔、肥前守、柳川城主・蒲池氏の反乱を主将として鎮圧、のちに父から家督を譲られたが国政は隆信が取った、父の命で筑後・肥後に転戦したが、島津軍が肥後に侵入したとき和議を結び領域を協定、父が島津・有馬連合軍との決戦で敗死したため、鍋島信生の協力によって国政を行った、九州征伐の豊臣秀吉に謁し、島津との戦いで先鋒となって肥前七郡を与えられる、しかし病身のため大阪城に出仕できず、秀吉の許しを得て国政を鍋島信生に委ねた、その後隠居して家督を子の高房に譲る、朝鮮の役では龍造寺武士団は信生が統制した、しかし信生(直茂)は政家の期待にそわず、龍造寺姓を名乗らず、事実上肥前武士団の支配は鍋島氏に移ることになる、徳川政権のもとで高房が自殺をはかり、政家も急死して龍造寺は断絶した

留守 政景 るすまさかげ (伊達政景)
伊達晴宗の三男で伊達政宗の叔父、留守顕宗の養子となる、高森城主、最上義光との戦いや人取り橋の合戦などで功をあげる、小田原の陣への参陣が遅れ所領没収、その後伊達氏の家臣となり朝鮮の役に参陣、関ヶ原では東軍につきここでも戦功をあげる、一ノ関城二万石

冷泉 隆豊 れいぜいたかとよ
大内氏の家臣、冷泉興豊の嫡男、父の代から祖母・冷泉氏を名乗った、大内義興・義隆に仕え和歌に堪能、安芸・銀山城主、陶隆房の謀反に際し、山口法泉寺に義隆っを守り、大寧寺で義隆の自刃する際に介錯した

六角 氏綱 ろっかくうじつな
六角高頼の嫡男、六角氏九代当主、定頼の兄、生まれながらに両足が不自由で歩行困難であった

六角 定頼 ろっかくさだより
六角高頼の次男、六角義賢の父、幼少時は相国寺慈照に入る、兄・氏網廃嫡により家督を継ぐ、将軍・足利義稙の近習となる、義稙が細川高国に追われると、高国と共に足利義晴を擁立した、近江の浅井亮政と対立したが京極高清の仲介で和睦、後に将軍・足利義輝の元服時に烏帽子親を務めた

六角 高頼 ろっかくたかより
観音寺城主、近江守護佐々木信綱から分かれた六角氏八代当主、六角久頼の子、応仁の乱では西軍の山名持豊に属す、幕府領の荘園を横領して幕府と対立、幕府軍と再三戦い甲賀や伊勢に逃れる、しかし将軍・足利義稙と和睦、子の六角定頼を近侍として義稙を庇護した

六角 義定 ろっかくよしさだ
六角義賢の次男、織田信長と六角氏交戦前に家中の分裂を納めるため父・義賢の命により兄義治から家督を継ぐ、六角滅亡後は隠棲

六角 義郷 ろっかくよしさと
六角義秀の遺児、幼名龍武丸、観音寺城が明智勢に攻められ落城した後落ち延びる、後に関白豊臣秀次に召しだされた

六角 義実 ろっかくよしざね
六角氏綱の嫡男、父・氏綱死後六角家を継ぎ十代六角氏当主、将軍足利義晴の養女・振姫を妻にもらう

六角 義弼 ろっかくよしすけ (六角義治)
六角義賢の嫡男、六角義治、父の出家により家督を継いだが実権は父・六角承禎(義賢)が握った、重臣の後藤但馬守父子三人を謀殺したため、永田・三上・池田・進藤・平井といった重臣たちの離反を招く、事態を恐れた義弼は父と共に観音寺城を捨て、三雲・蒲生を頼り落ち延びる(観音寺騒動)、蒲生定秀らの調停で騒動は終結し、「六角氏式目」により家臣団の権益を守る代表者にすぎない存在に落ちぶれた、その後足利義昭を擁した織田信長の上洛に戦わずして父と共に逃亡した

六角 義秀 ろっかくよしひで
六角義実の嫡子、幼名亀寿丸、六角家当主が義治になってから蒲生賢秀に庇護される、六角義賢が信長に敗れると蒲生賢秀の懇願で信長から六角宗家の継承を許され観音寺城主となる、本能寺の変の数日前に病死

 
わ行の登場人物 戦国本の登場人物の紹介

和賀 忠親 わがただちか
陸奥・和賀郡領主、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため所領没収される、その後の奥州仕置に反乱を起こすが鎮圧される、関ケ原前の会津征伐で旧領の領主・南部利直が留守中に残党を率いて決起、しかし撃退され伊達政宗を頼って落ち延びた、背後での扇動発覚を恐れた政宗の求めにより自刃した

脇坂 安元 わきさかやすもと
脇坂安治の次男、幼名・甚太郎、淡路守、関ヶ原の戦いで父と共に東軍へ合流しようとしたが、近江で進めなくなったため使者を家康に送って状況を説明、父と共に大谷吉継の下で西軍に参加するが、小早川秀秋の寝返りに呼応して東軍に寝返った、その後佐和山城攻めに参加、のちに父と共に伊予・大洲に移った、兄が亡くなったために家督を継ぎ、大阪の陣には藤堂高虎の下で参加している、戦後に信濃・飯田五万五千石に移封された

和田 昭為 わだあきため
佐竹家の臣、佐竹義昭、義重、義宣の三代に仕える、家中の内政面で活躍、義宣の信頼厚く、朝鮮出兵時には義宣の代わりに国元の最高責任者となる

和田 喜兵衛 わだきへえ
長政業正の家臣・和田信輝の子、和田業繁の弟、長野業正の死後、兄・業繁は甲斐・武田家に従属し、喜兵衛は越後・上杉家への従属、そのため家中は分裂する、のちに越後勢を先導し和田城を攻めた、第四次川中島合戦ののちの上杉謙信の退却に従って春日山城に戻った直後に没した

和田 惟長 わだこれなが
高槻城主・和田惟政の子、摂津の荒木勢と戦い討ち死にした惟政のあとに家督を継いだ、配下の高山父子が村重に通じていることを突き止め、誘い出して討ち取ろうとしたところ反撃にあって傷を負い逃亡、のちに死亡した

和田 惟政 わだこれまさ
近江甲賀郡和田村出身、将軍義輝の御供衆、高山飛騨守の勧めでキリシタンとなる、将軍義輝が三好三人衆に討たれると弟の覚慶(後の足利義昭)を保護した、細川藤孝と共に若狭・武田氏や越前・朝倉氏を経て美濃の織田信長に頼った、義昭を奉じた織田信長の上洛に従い大和平定戦に参加、摂津三守護の一人として高槻城主となる、一時信長の勘気を被り剃髪して紀伊入道を名乗る、松永久秀・三好三人衆と戦い配下の池田氏との攻防で中川清秀に討ち取られた

和田 新介 わだしんすけ
尾張・黒田の将、和田惟政の弟ともいわれる、犬山城主・織田信清の臣であったが、蜂須賀小六の諜略で信長に降った、伊勢進攻・一向一揆征伐などに従軍、長島攻めの一揆勢の攻撃で討死

渡辺 数馬 わたなべかずま
岡山藩主・池田忠雄の家臣、弟・渡辺源太夫が河合又五郎に斬られる刃傷事件が起こり仇討ちを決意し牢人、義兄の荒木又右衛門とともに仇討ちの機会をうかがい、寛永11年に伊賀上野の鍵屋の辻での激闘の末に河合又五郎を討ち果たした、その後は鳥取藩主・池田光に迎えられた、この仇討ちは「忠臣蔵」「曽我兄弟の仇討ち」とともに「日本三大仇討ち」に数えられている

渡辺 通 わたなべかよう
渡辺勝の子、父が相合元網擁立に動いたため誅殺され備後に逃亡、その後毛利家に帰参、毛利元就が大内氏に従い尼子氏との合戦の折に敗走中、身代わりとなって殿軍として戦死した

渡辺 勘太夫 わたなべかんだゆう
渡辺勘兵衛の父、渡辺右京、近江・山本城主・阿閉淡路守長之の家臣

渡辺 金内 わたなべきんない
石川数正の家老、数正の豊臣方寝返りに従った、数正死後は嫡男・康長に仕えた、康長改易後は不明

渡辺 勝 わたなべすぐる
毛利家家臣、元就の家督相続に尽力、その後の元就異母弟・相合元網擁立に加担し、元就に殺害された

渡辺 宗覚 わたなべそうかく
大友家の家臣、もともと鉄砲鍛治で中国で大砲鋳造技術を学んだ、大友家の改易後は府内城主・早川主馬に仕えた、その後に大砲鋳造技術を買われ徳川家康に仕える、大分郡生石村三百石の代官となる、大阪の陣のころは大砲鋳造にあたり、家康に従軍した

渡辺 糺 わたなべただす (渡辺内蔵助)
渡辺昌の子、母は淀殿の側近・正栄尼、槍の名人で豊臣秀頼の指南役、足利義昭の家臣から織田信長・豊臣秀吉の家臣となる、江戸・大坂の不穏な時期に主戦派として片桐且元暗殺を図った、大坂の陣では上杉軍の鉄砲射撃に驚き退却して馬鹿にされた、夏の陣では汚名返上のために奮戦したが大坂城落城時に自刃した

渡辺 守 わたなべまもる (渡辺長兵衛)
渡辺勘兵衛の嫡子、渡辺長兵衛守、父と共に藤堂高虎に仕え別禄三千石、大坂冬の陣に父と共に先鋒となる、戦後千石加増され四千石

和田 頼元 わだよりもと
紀州・熊野の土豪・和田蔵人盛頼(頼実)の子、和田忠兵衛頼元、突き取り法による捕鯨の祖

亘理 重宗 わたりしげむね
伊達家の臣、亘理元宗の嫡男、父と共に各戦場を転戦し、高清水城主となる

亘理 元宗 わたりもとむね
伊達家の臣、伊達稙宗の十二男、伊達晴宗の弟、兄・綱宗の死後を継ぎ、外祖父・亘理宗隆の養子となった、亘理城主、相馬氏との戦で活躍、輝宗に背いた中野宗時を刈田郡宮で迎え撃ち敗走させる、最上義光との戦いに出陣し、その後和睦の使いを勤めた相馬氏との戦いで金山城、丸森城を奪回、人取橋の戦い、郡山の戦いに参加、葛西・大崎一揆では政宗に代わって戦を指揮し負傷、伊達家移封に伴い涌谷城に移った

和智 誠春 わちまさはる
備後・南天山城主、毛利隆元の祖母の妹を妻とする、また弟の元郷の妻も毛利隆元の妻の妹という親戚筋、毛利隆元の毒殺の首謀者と見られ、元就の命令で厳島に監禁されるが厳島神社の神殿に逃げ込み抵抗し熊谷就政に討ち取られた

和仁 親実 わにちかざね
和仁親続の嫡男、父の死後に田中城主となった、佐々成政の検地に抵抗し一揆を起こし田中城に籠城、激怒した豊臣秀吉が小早川隆景に討伐を命じ、小早川秀包・立花宗茂・安国寺恵瓊約一万の軍に攻められ、約1千の兵で二ヶ月こらえたが落城した

和仁 親続 わにちかつぐ (和仁弾正)
肥後・玉名郡田中城主、和仁親冬、菊地義武に仕えていたが、菊地が大友家に滅ぼされると大友家に属した、しかし次第に勢力を増してきた龍造寺氏に攻められ落城、その後島津家を頼り本領を回復した


*印は著者の創作人物または実在したかどうかは不明な人


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