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天皇・公家 戦国本の登場人物の紹介
上総介の読んだ戦国本に登場する人物を紹介。主人公や脇役の紹介はこちら

あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行
武将の妻・子
 商人・文化人 天皇・公家 僧侶・忍者等 外国人

一条 昭良 いちじょうあきよし (一条兼遐)
摂政・関白、後陽成天皇の第九皇子、母は近衛前久の娘、関白・一条内基の養子となる、一条兼遐、左大臣・関白・摂政を歴任して辞任、一条昭良と称したにのちに再度摂政に就任し、その後関白に進んだ

今出川 晴季 いまでがわはるすえ (菊亭晴季)
今出川公彦の子、初名は実維、従三位・内大臣・右大臣となった、豊臣秀吉の関白就任を斡旋、また娘を豊臣秀次に嫁がせる、しかし秀次事件に連座して越後に配流、その後許され、秀吉死後右大臣に戻る

大石 甚助 おおいしじんすけ
八条宮智仁親王の侍臣、関ヶ原で細川幽斎が田辺城に籠城したとき、智仁親王の命で開城勧告の使者として赴く

正親町三条 公兄 おおぎまちさんじょうきんえ
正親町三条実望の子、母は駿河守護・今川義忠の娘、法名・紹空、正二位・内大臣

正親町三条 実望 おおぎまちさんじょうさねもち
正親町三条公治の子、法名・盛空、号・後慈光院、正二位・内大臣、妻は駿河守護・今川義忠の娘、応仁の乱で荒廃した京を逃れ、荘園があった駿河に下向しこの地で没した

正親町天皇 おおぎまちてんのう
第百六代天皇、後奈良天皇の第二皇子、母は万里小路房子、後奈良天皇の崩御に伴って四十一歳で即位し、三十年間皇位にあった、即位の礼をあげられず毛利元就の援助でやっとあげられた、織田信長の上洛により権威を利用され勅命を出さされた、のちに信長に再三譲位を迫られるが最後まで拒んだ、豊臣政権でも権威は利用されることになる、孫の後陽成天皇に譲位して仙洞御所に隠退した

小倉宮 聖承 おぐらのみやせいしょう
南朝最後の第四代天皇・後亀山天皇の孫、小倉宮恒敦の子、小倉宮家二代、出家して聖承、子に小倉宮教尊、北朝・称光天皇が嗣子なく没し、北朝の傍流の伏見宮家から彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとしたことをきっかけに、これに不満を持って、伊勢・国司の北畠満雅を頼って居所の嵯峨から逃亡、満雅は鎌倉公方・足利持氏と連合し、聖承を推戴して反乱を起こした、しかし持氏が幕府と和解し、満雅は伊勢・守護の土岐持頼に敗れ戦死、その後も聖承は伊勢に滞在し抵抗を続けるが、のちに和睦して京に戻された、その後出家し、「小倉宮聖承」を名乗った

勧修寺 尹豊 かじゅうじただとよ
藤原氏、権大納言尚顕の子、勧修寺晴豊の祖父、諸官を歴任して正四位上で参議、従二位で権大納言となり、のちに従一位に叙したが翌月に辞職、その後准大臣・内大臣に任じたがただちに辞職、出家した、この間、武家伝奏、賀茂伝奏を兼帯、また御料所の貢租督促などのために伊豆・播磨・陸奥・伊勢・安芸の諸国に赴いた、出家して紹可と称す

勧修寺 晴子 かじゅうじはるこ
誠仁親王の女御、お阿茶の局、勧修寺晴豊の妹、母方の祖父は若狭の守護・武田氏の家臣粟田元隆、後陽成天皇・八条宮智仁親王ら十三人の子女を生む

勧修寺 晴右 かじゅうじはるみぎ
藤原氏、権大納言尹豊の子、勧修寺晴豊の父、諸官を歴任し参議、右大弁、従三位で権中納言、

勧修寺 光豊 かじゅうじみつとよ
権中納言晴豊の子、母は土御門有脩の娘、妻は太田一吉の娘、江戸幕府初の武家伝奏、「光豊公記」の著者

烏丸 光宣 からすまるみつのぶ
藤原氏、権大納言光康の子、従五位上、左右衛門佐、権右少弁、権左少弁、蔵人、右中弁、左中弁、右大弁、蔵人頭を歴任して正四位上で参議に任じた、その後従三位・権中納言、従二位・権大納言、従一位・准大臣に任じた、尊朝流の書に優れ、千利休との交誼も知られる

烏丸 光広 からすまるみつひろ
烏丸光信の子、結城秀康未亡人の鶴姫を正室としている、従二位行権大納言、清原清賢に儒学を学び、細川幽斎に和歌を学んで古今伝授を受けた、猪熊事件で蟄居するがのちに勅免され、徳川家光の歌道指南役を務めた、歌人としても有名で歌集は「黄葉和歌集」があり、その他著書に「耳底記」「あづまの道の記」、仮名草子に「目覚草」などがある

甘露寺 経元 かんろじつねもと
藤原氏、下冷泉為豊の子、権大納言伊長の嗣子となり、諸官を経て、正四位上で参議となり、従二位で権大納言に任じた

九条 兼孝 くじょうかねたか
二条晴良の子、九条稙通の猶嗣子、母は伏見宮貞敦親王娘、従一位、関白となった、のちに出家して円性

九条 忠栄 くじょうただひで
関白・左大臣九条兼孝の子、妻は羽柴秀勝とお江の娘、母は権大納言・高倉永家の娘、左少将・権中納言・権大納言を経て関白に任ぜられた、一旦辞すが再び関白に任ぜられた、武家の権力に屈することを好まず、しばしば幕府と対立したために再度関白を辞する、のちに幸家と改名した

近衛 前子 このえさきこ (中和門院)
関白・太政大臣近衛前久の子、後陽成天皇の女御、後水尾天皇・近衛信尋の母、准三后となり中和門院を称した、徳川和子が入内した翌年に天海を戒師として出家した

近衛 植家 このえたねいえ
近衛前継の父、関白太政大臣、細川晴元・足利義輝と共に朽木に逃れ、和歌や源氏物語の研究に勤しみ政治から手を引いた

近衛 信伊 このえのぶただ (近衛信基)
近衛前久の嫡子、十七歳で内大臣、元服時は信長が烏帽子親となり「信」の一字を与えられ近衛信基と称した、信長に心酔し父と対立、本能寺の変後に信伊と名乗る、朝鮮出兵を秀吉に願い出て後陽成天皇の怒りに触れ、薩摩に流される、後に許され帰京し関白就任したが翌年に辞職、歌道・茶道・書道に通じ、「寛永の三筆」の一人に数えられ、三藐院流の書道の祖となる

近衛 信尋 このえのぶひろ
後陽成天皇の第二皇子、後水尾天皇の弟、関白・近衛信伊の養子となる、徳川秀忠の五女・和子の入内に奔走、その後関白に就任した、二女・尋子(泰姫)は水戸藩主・徳川光圀の妻

後陽成天皇 ごようぜいてんのう
第百七代天皇、正親町天皇の皇子・誠仁親王の第一皇子、母は新上東門院藤原晴子、父が皇位継承前に没したため正親町天皇の譲位を受けて即位、豊臣秀吉・徳川家康・秀忠の時代に在位、徳川政権では幕府と対立を深め後水尾天皇に譲位、漢学・和学に長け、自ら「源氏物語」「伊勢物語」の古典を廷臣に講じた

西園寺公朝 さいおんじきんとも
一条内基の補佐役、従一位左大臣、三好長慶に肩入れし松永久秀と結ぶ

祥子内親王 さちこないしんのう
後醍醐天皇の皇女、後村上天皇の姉、伊勢斎宮に卜定されるが兵乱により野宮を退下、伊勢への群行は遂げられず最後の斎宮となった

誠仁親王 さねひとしんのう
正親町天皇の嫡子、後陽成天皇の父、信長の猶子(ゆうし)となる、二条御所を与えられ信長の支援を受ける、本能寺の変で信長が横死した四年後皇位を継承する前に没す

鷹司 信尚 たかつかさのぶひろ
関白・左大臣鷹司信房の子、母は佐々成政の娘、妻は後陽成天皇の娘・清子内親王、妹は徳川家光・正室、若くして関白までにのぼり、徳川政権と対立したため家康から嫌われ関白を辞することになる、三十二歳で不慮の事故で没した

立入 宗継 たてりむねつぐ
禁裏御倉職、立入頼隆の子、従五位下、左京亮、正親町帝の勅を受けて織田信長の上洛を促す、その後朝廷と信長の間を周旋した、『立入左京亮入道隆佐記』を記した

土御門 久脩 つちみかどひさなが
陰陽頭・土御門有脩の子、従三位、第二十代陰陽頭、武田征伐に従軍するなど織田信長に接近し、非参議ながら昇殿を許された、そして信長の求める暦の改正を切り出して上級公卿からの非難を浴びた

徳大寺 実久 とくだいじさねひさ
花山院定熙の子、内大臣・徳大寺公維の養子となった、妻は織田信長の娘

中院 通勝 なかのいんみちかつ
右大臣中院道為の子、三条西実枝の甥、権中納言、正親町天皇の勘気を被り京を出奔、細川幽斎を頼って田辺城で約十九年間過ごす、その後許されて京に戻った

中院 通村 なかのいんみちむら
権中納言・中院道勝の子、母は細川幽斎の娘、権大納言、武家伝奏、後水尾天皇の側近として行動し、天皇の譲位後に右大臣・二条康道と謀議を謀り江戸寛永寺に幽閉される、のちに天海の口利きで赦免され内大臣に任ぜられた

中御門 資胤 なかみかどすけたね
武家伝奏・庭田重保の四男、中御門宣政の娘と結婚し中御門家の養子となった、中御門宣光、本能寺の変では誠仁親王らと二条御所にいて、輿に乗ることも出来ずに御所を逃れた

中御門 宣胤 なかみかどのぶたね
京の中流公家で極官は権大納言、従一位、今川氏親の妻・寿桂尼の父、出家して乗光、故実家で衰退した朝儀の復興を目指して故実・典礼を研究した、また和歌・連歌にも長けていた、娘・寿桂尼が氏親に嫁ぐときに印判に彫って授けたといわれ、その印判を使って寿桂尼は国政を行って各種文書を発給した

中御門 宣綱 なかみかどのぶつな
京の中流公家で極官は権大納言、従二位、中御門宣秀の子、母は吉田兼倶の娘、今川氏親の妻・寿桂尼の甥、度々駿河に下向し、今川滅亡時には遠江に逃れ客死した

中御門 宣秀 なかみかどのぶひで
京の中流公家で極官は権大納言、従一位、中御門宣胤の子、母は甘露寺親の娘、今川氏親の妻・寿桂尼の兄、父と同様に故実家となった、また和歌にも長けていて作品が現在も残っている

中山 親子 なかやまちかこ
誠仁親王の女御、父は権大納言・中山親綱、若草の君、大典侍局と称する、一宮・良仁親王(覚深入道親王)、二宮・承快法親王を生んだ、親王の寵愛を受ける

中山 孝親 なかやまたかちか
藤原氏、権大納言康親の子、侍従・参議・権中納言を経て、正二位で権大納言となった、その後辞任し、病篤くなるや従一位・准大臣となる

西洞院 時直 にしのとういんときなお
西洞院時慶の子、官位は最終的に従二位、後水尾天皇の側近として活躍した

西洞院 時慶 にしのとういんときよし
飛鳥井覚澄の子、叔父・飛鳥井雅春の養子となって河鰭家を再興した、西洞院時当の養子となり家を継ぐ、官位は最終的に従二位、出家して円空と称す、里村紹巴に連歌の指導を受け歌人としても活躍した、日記「時慶卿記」は公家の学問・文化・生活を知る好史料であり、家集「時慶卿集」もある

二条 昭実 にじょうあきざね
関白左大臣・ 二条晴良の子、妻は織田信長の娘・三の丸殿、二条康道は養子、一時関白となるも辞任し再度関白に就任

二条 晴良 にじょうはるなが
藤原氏、関白・尹房の子、正五位下で侍従、左近衛少将・同中将を経て従三位で権中納言、従二位で権大納言、内大臣、右大臣、左大臣、関白、従一位と昇り、辞職、再度関白となり准三后宣下を受ける、その後辞職した

二条 康道 にじょうやすみち
関白・左大臣九条忠栄の長男、母は羽柴秀勝の娘、関白・左大臣二条昭実の養子となる、徳川家康から康の字を贈られて康道と称した、左大臣・摂政をつとめた

日野 有光 ひのありみつ
権大納言・日野資教の子、号は祐光、足利義満の縁戚で寵愛を受け、娘が称光天皇の妃となる、権大納言にまで昇進するが、のちに権大納言を辞任、出家して祐光と称す、のちに足利義持との確執により室町殿より追放された、嘉吉の乱の後、尊秀王による京都侵入事件(禁闕の変)が起こると、神璽と宝剣の神器を奪って比叡山に籠る、畠山持国らに攻められ、子の日野資親と共に斬罪

日野 輝資 ひのてるすけ
日野晴光の子、従三位・権大納言、蹴鞠の名人、摂津に所領があり、長束直吉の検地を受けている、関ヶ原の折に田辺城への勅命の使者となる、このように勅命の使者となることが多かった

広橋 兼勝 ひろはしかねかつ
藤原氏、権大納言・広橋国光の子、日野大納言輝資の弟、従五位下から諸官を経て、正四位上で参議・左大弁、従三位で権中納言、従二位で権大納言、正二位で内大臣となったが、翌年辞職、その後従一位に昇叙、徳川家康の征夷大将軍に任ずる内示を与え、大坂の陣では両軍の和睦に尽力した

万里小路 充房 までのこうじみつふさ
藤原氏、贈内大臣勧修寺晴右の子、権中納言輔房の嗣子、従五位下に叙し、蔵人頭・右大弁などを経て正四位上で参議・左大弁に任ず、その後従三位で権中納言、正三位で権大納言、のちに従二位に昇る

柳原 淳光 やなぎはらあつみつ
藤原氏、権中納言資将の子、権大納言資定の嗣子、従五位下に叙し、諸官を経て正四位上で参議・左大弁に任ず、その後従三位に叙し、奈良に下向、のちに上洛し権中納言、正三位、従二位に叙したが逐電、その後辞職してのち還任したが再度辞職、病篤く従一位に叙した

山科 言綱 やましなときつな
山科言国の子、従二位、権中納言、母は高倉永継の娘、妻は今川氏親の妻・寿桂尼の姉、歌人としても有名で度々駿河に下向した

山科 言経 やましなときつね
権大納言・山科言継の次男、権中納言、戦国期の良質の資料であり五十年に渡る日記「言継卿記」の著者、尾張の織田信定・信秀親子に和歌や蹴鞠を伝授した、剣聖・上泉信綱などとも親交があった、本能寺の変前日に信長と謁見し変の状況を日記に記した

冷泉 為和 れいぜいためかず
京の公家、正二位、権大納言、冷泉家は平安朝以来の和歌の家で歌人としても有名、遠江小高郷・相良庄・高部郷、駿河小柳津に所領地を持つ、応仁の乱以降に国人に奪われた所領を安堵してもらうため、今川家にしばしば下向した


*印は著者の創作人物または実在したかどうかは不明な人


あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行
武将の妻・子
 商人・文化人 天皇・公家 僧侶・忍者等 外国人

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