源頼朝の鎌倉幕府創設時に力を貸した大江広元の第四子・季光が相模毛利荘にあって毛利氏を名乗る。鎌倉の三浦泰村の反乱に加担し敗れ三人の子と共に自刃した季光の第四子・経光が越後に在国して乱に加わらなかったので後に安芸吉田荘の地頭職につき吉田に土着した小豪族
尼子氏に属する毛利弘元の次男、母は福原広俊の娘・祥妙(しょうみょう)、幼名・松寿丸、五歳で母、十歳で父・弘元と死別れ。猿懸城主。
家督を継いだ兄・興元は大内義興の上洛に駆り出され、留守を守る元就は傅役・井上元盛の横暴を許すことになる。兄の死後、遺児・幸松丸を助け、初陣で安芸一帯に猛威を振るった名族武田元繁を有田城合戦で討ち取る。しかし出雲・尼子経久に従うことになる。その後幸松丸が死に元就と異母弟・元網の跡目争いで家中が分裂。元就は将軍の命という形で家督を相続し元網を討ち、元網加担の坂氏、渡辺氏を成敗、毛利家を掌握した。
家督相続後尼子と断絶し大内に帰属。長男・隆元を山口に人質として送る。尼子氏の吉田郡山城攻めを籠城戦で耐え抜き、大内の援軍・陶晴賢(隆房)軍が到着し、尼子軍を撃退した。
その後大内家の内部抗争が始まり、陶晴賢の叛乱により大内義隆が落命。その間元就は、吉川氏に次男元春、小早川氏に三男隆景を送りこみ、安芸における勢力拡大と井上一族を粛清による家内の引き締めを図る。
領内の安定後、謀略を使って背後の尼子の勢力を削減。村上水軍を味方に引き入れ、4倍の兵力差の陶軍を撃破し、陶晴賢を自刃させ、大内領を配下に置いた。
その後尼子氏を攻め、挟撃を狙った大友宗麟と和睦して、尼子氏の居城・月山富田城を落とした。これで中国地方をほぼ治める形となる。
尼子滅亡後は大友宗麟との盟約を破り大友家の内乱に援兵を送る。この間、尼子旧臣を束ねた尼子勝久・山中鹿之介に上月城を落とされるが、子の吉川元春・孫の毛利輝元らが尼子勢を撃退していった。しかし出雲平定を待たず郡山城において七十五歳で没する。元就は一生のうち二百二十数回の合戦のほとんどに勝利しているという。
妻:吉川国経の娘・妙玖(みょうく)
父:毛利弘元
子:隆元、元春(吉川家)、隆景(小早川家)、元康、元政、元秋(椙杜家)、秀包、元清(穂井田家)、娘
兄弟:興元(兄)、元網(弟)、就勝(弟)、姉
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