信濃・上田城主。幼名・源五郎。武藤喜兵衛。安房守。
真田幸隆の三男。人質として武田家に出仕。武藤家の養子となり、武田信玄の足軽大将となった。信玄の軍略を間近でよく学んだと言われている。
兄二人が天正三年の長篠合戦において戦死したため真田家を継ぎ、信濃上田城主となる。同八年、北条氏の守る上野・沼田を攻略し、沼田城も領した。
同十年、織田家の武田攻めの際、勝頼を上州に逃すために働いたが果たせず武田家は滅亡。
同年の本能寺の変を経て真田家は自立した大名となり、上杉・北条・徳川などの大勢力の臣従を次々と変え、巧みに難局を乗り切った。
同十三年に家康が北条氏と和睦し、その条件に沼田城を割譲すると、家康から突如それまで敵対していた上杉景勝につき、上杉氏の勢力を後ろ盾とし徳川の大軍をみごとに迎撃した。
同十七年、豊臣秀吉に従い、その命で沼田城を北条氏に譲る。また、長男の信幸には家康の養女である本多忠勝の娘を、次男信繁(幸村)には大谷吉継の娘を娶った。しかし翌年の小田原攻めで北条氏が滅亡し、旧領を回復する。
関ヶ原の戦いでは、信幸が徳川方、昌幸と幸村が石田方と分かれて真田家の存続を図る。この時、中山道を関ヶ原方面に向かう徳川秀忠の大軍を上田城で迎撃。これによって、徳川方主力の一翼を担う秀忠軍が関ヶ原の戦いに間に合わなかった。
しかし関ヶ原で石田方が敗北し、信幸の嘆願により助命され、幸村ともども紀州・九度山に蟄居となる。慶長十六年、九度山で病没。
妻:山之手殿(宇田頼忠の娘説、菊亭(今出川)晴季の養女説あり)
父:真田幸隆
子:信幸(信之)、信繁(幸村)、信勝、昌親
兄弟:信綱(兄)、信輝(兄)、信尹(弟)、高勝(弟)
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