初めて日本に来たイギリス人。オランダ船団の航海長として旗艦デ・ホープ号に乗艦する
しかし途中で航海長を罷免され、副艦デ・リーフデ号に移って航海士となった
1600年(慶長五年)にデ・リーフデ号は船団の五隻中唯一、大分県臼杵に漂着し、アダムスたちは太田一吉に保護された
のちに彼のみ徳川家康に取り立てられ、二百五十石の家康の外交顧問となった
航海術、造船術の知識、西洋諸国の戦争の状況などを日本に伝えた
相模・三浦の逸見に領地を得て「三浦按針」と名乗り、日本人女性と結婚し子供が2人いた
大阪の陣が始まる頃、扶持は子に譲り、南海への遠洋貿易を始めるために出航するが、失敗して日本に戻る
その後貿易家として活動したが、マラリアにかかり平戸で病死した
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