江戸初期の剣術家。大和柳生藩主。柳生石舟斎宗厳の五男。通称・又右衛門。但馬守
文禄三年、父・宗厳とともに徳川家康に召しだされ、慶長五年の関ヶ原の戦いに参陣
戦後、旧領の柳生庄二千石を賦与。
徳川家の兵法師範として徳川秀忠・徳川家光に新陰流を伝授
家光の信任を得て、寛永六年、従五位但馬守。同九年から同十三年まで大目付となる
数度の加増をうけ、同十三年、大和国のうちで一万石を領して大名に列せられる
その後再度の加増により一万二千五百石となった
正保三年三月二十六日没。七十六歳
なお、柳生家はこののち分知、加増などによる石高に増減があったが、寛文六年以降は一万石の大名として存続した
妻:松下之綱の娘・おりん(正室)
父:柳生宗厳
子:三厳、友矩、宗冬、列堂義仙、ほか女7人
兄弟:厳勝(兄)、休斎(兄)、徳斎(兄)、宗章(兄)
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