長宗我部国親の嫡子。母は美濃・斎藤氏。通称・弥三郎。宮内少輔。土佐守
背ばかり高く、色白でろくに口もきけず「うつけ者」「姫若子」といわれた
しかし初陣で敵の首七十以上あげ、武勇をとどろかせる
その年に国親が没して家督を継ぎ、本山氏をはじめ近隣の諸豪族を討伐した
国司・一条兼定を豊後に追って、翌年に土佐一国を統一。ついで阿波・三好長治を滅ぼし、十河城を落として讃岐統一。河野通直を下して伊予を平定して四国を統一した
織田信長没後に
柴田勝家と組み
羽柴秀吉と対立したが、秀吉の四国征伐に降伏し土佐一国九万八千石を安堵された
九州征伐には先発軍として嫡男・
長宗我部信親とともに出陣。
仙石秀久・十河存保と豊後に渡るが、島津軍と戸次川で戦い敗れ信親を失い、自身はからくも危機を脱した
その後居城を岡豊から大高へ移した。小田原攻めでは水軍を率いて出陣し、帰国後に居城を浦戸に移した
文禄の役にも出陣し、帰国後に伏見城の工事を分担。浦戸に漂着したイスパニア船サン・フェリペ号の貨財を秀吉に献じ賞される
四男・
長宗我部盛親と連名で百ヶ条の掟書を制定し、家臣・農民らの訴訟・刑法を規定した
再び朝鮮に渡り各地に転戦し帰国。この間に盛親を嗣子に定めたが、反対の一族重臣を殺害し、二男・三男を幽閉するなど晩年は人格的に批判が多いが、仏教・儒学に関心を持ち、和歌・連歌・茶の湯にも深い嗜みをもった。秀吉逝去の翌年に伏見の邸で没した