幼名・梵天丸。藤次郎政宗。美作守・侍従・越前守・右近衛権少将・陸奥守・参議・権中納言。
伊達輝宗の嫡男。仙台藩祖。五歳のとき、疱瘡にかかり片目を失う。天正五年に元服し、伊達中興の主・大膳大夫政宗の名を襲った。
同七年に三春城主・田村清顕の娘・愛姫と結婚。同十二年、十八歳の時に父から家督を譲られた。
家督相続直後、大内定綱の謀叛が起こり撫で斬りを敢行。その後畠山義継に隠居中の輝宗を人質にとられ、義継は輝宗を殺害後自刃した。
畠山氏追撃を行ったが、畠山氏を助ける芦名・佐竹連合軍と激突し大敗。その後の芦名・佐竹連合軍を破り、同十七年、逆に芦名領へ攻め込み大勝(摺上原の戦い)。須賀川城主・二階堂氏を滅亡させ、石川昭光・白川義親らを服従させて、浜通りを除く奥州の半分を手にした。
そのとき豊臣秀吉の小田原攻めがあり、秀吉の召喚に渋々答え小田原に参陣を決意。出発前に弟の家督相続を狙う母から毒を盛られ重症を負い、弟・小次郎の成敗などで一ヶ月の小田原遅参。天正十八年に死装束で秀吉に謁見、伊達家存続を許されるが、旧芦名領は召し上げとなった。
旧大崎・葛西領での一揆を扇動し、蒲生氏郷の鎮圧を邪魔して領土加増を狙い、関白秀次の謀叛に加担したとの噂などがたつ。その度に秀吉に弁明して許された。
秀吉の死後まもなく長女・五郎八姫と家康の子・忠輝の婚約により徳川氏に接近。関ヶ原では、百万石のお墨付きで上杉家の抑えを任され、その功により刈田郡と近江・常陸に二万石の加増を受け、あわせて六十二万石を領した。
その後鉱山奉行の大久保長安の幕府転覆計画にも名前があがる。大坂夏の陣では後藤又兵衛を討ち取るが、横槍を入れた徳川方の神保相茂隊にも鉄砲を撃ちかけ、卑怯者と呼ばれる。
一方内政面では仙台城と城下町の建設など藩政にも力を注ぎ、さらに黒船を建造して日本からヨーロッパ(ローマ、スペイン)へ初の欧州派遣使節を送るなど、国際的な活動にも積極的だった。
晩年は茶・料理・和歌などで日々を無駄なく過ごし、江戸で死亡。死因は食道癌。享年七十歳。
政宗は片目だったが、肖像画を描かせるときは両目が開いているように描かせていた。
妻:愛姫(三春城主田村清顕の娘)
父:伊達輝宗
子:五郎八姫(松平忠輝妻)、忠宗、宗綱、竹松丸、以下側室の子(秀宗:宇和島藩祖、宗清:飯坂家、宗泰:岩出山伊達氏、宗信、宗高、宗実:伊達成実養子、宗勝、その他女子二名)
兄弟:小次郎(弟)
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