豊後・大友氏二十代宗家、大友宗麟の父、大友義長の嫡子、家督相続後に豊後・直入郡の朽網親満の反乱を制してその地位を確立、肥後・菊池氏の家督継承の混乱期に、弟・法師丸(のちの重治・義武)を菊池氏に入れ大友勢力を扶植する、しかし重治は逆に義鑑支配の攪乱を策謀、豊後領国内紛争の要因をつくる、その後、豊前の制覇を賭けて大内義隆と争い、速見郡勢場ヶ原で決戦、将軍・足利義晴の和平勧告もあって和睦、将軍家との密接な関係を維持しつつ、肥前支配を重視、重治を排除して肥後守護に補任された、優れた家臣団を擁して豊後・筑後・肥後の三国に及ぶ領国を得る、しかし嫡子・義鎮を廃して三男・塩市丸を家督に立てようとして、これに反対する田口蔵人佐らに斬られ、塩市丸も殺害された、「義鎮条々」の遺言を義鎮に与えて死去
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