前半生は不明。いつのころか、三好氏に仕え、三好長慶の右筆となり長慶の絶大な信頼をえる。弾正少弼、従四位下叙任、将軍より桐の紋の使用を許可され、源氏を名乗る。
長慶の命で大和・信貴山城を拠点にして諸城を落とし、多聞山城を築き大和を平定。多聞山城は石垣の上に櫓を組んだ当時最新式の城で、天守閣をもつ最初の城といわれる。
この後、長慶の弟の三好之康が久米田の戦いで戦死、長慶の息子の義興が死去、弟の安宅冬康を久秀の讒言で長慶が殺害、長慶の弟の十河一存が死去と相次いで弟たちが死去したが、このうち何件かは久秀の仕業という風聞がたつ。後に長慶は心身に異常をきたし四十三歳で死去した。
三好氏は一存の子、義継が家督を継ぐが実権は久秀が握る。やがて当時味方だった三好三人衆とともに将軍足利義輝を暗殺。その後久秀に不信感を持ち始める三好三人衆と対立して東大寺で破り、大仏を焼く。その後は反抗勢力である筒井順慶を中心とする大和土豪との戦いに時間を要したため、信長が上洛することになり軍門に下った。
信長から大和一国の支配権を許され、大和を席巻し越前遠征に参加。しかし信長包囲網が築かれ始めると対立していた三好三人衆と手を組み離反する。しかし包囲網は崩れ去り、多聞城を急襲され信長に空け渡し許され、信貴山城に退いた。
しかし上杉・毛利・本願寺などが再度包囲網を築くと再び信長に叛く。そして織田信忠が信貴山城に攻め入り、抗戦するが落城間近となり爆死した。
久秀は三好家に対する反逆、将軍の謀殺、大仏炎上の三つの行為を行い、世に久秀の三悪事といわれた。
また茶の湯を好み、九十九茄子、平蜘蛛茶釜など多くの名器を所有した。
妻:?
父:?
子:久通、永種
兄弟:長頼
|