本多正信の嫡男。上野介。父の出奔により本多一族に育てられる。十九歳のとき徳川家康に仕える。
関ヶ原後に下野・小山三万三千石の大名となる。秀忠が将軍職を継ぎ、家康が大御所政治を取り始めると、その最高指導者となる。貿易・外交の責任者となり、諸大名への貿易許可を出す権限を与えられる。
大坂冬の陣の契機となる「方広寺鐘銘事件」を金地院崇伝と共に画策。豊臣家との和議の交渉役となり、大阪城の外堀だけの埋め立ての約束を反故し、内堀まで埋め立てして豊臣家を追い詰め、大坂夏の陣のきっかけを作った。
家康と父・正信が相次いで亡くなると幕府における発言力が低下。江戸で秀忠政権の一人となるが、幕閣は秀忠の側近・土井利勝・酒井忠世・安藤重信らが占め、正純はその中で浮いた存在となっていく。
小山から宇都宮十五万石に加増となるが、日光東照宮参拝を終えた秀忠を宇都宮で暗殺することを企てたとして配流(宇都宮釣り天井事件)。
出羽横手に千石だけ与えられて、佐竹義隆預かりの身となり、七十二歳で没す。
妻:?
父:本多正信
子:正勝
兄弟:政重(弟)、忠純(弟)
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