竹中遠江守重元の嫡男。通称・半兵衛。美濃三人衆の一人・安藤守就の女婿。
父の死後菩提山城主となり、美濃の斎藤龍興に仕える。ところが主人の倣岸さに失望し、その行動を諌めるために、永禄七年、たったの十六人(一説に十七人)でその居城稲葉山城を乗っ取るという神業をやってのけた。
当時美濃への侵攻を考えていた尾張の織田信長は、美濃半国と引き換えに稲葉山城を明け渡すように半兵衛にせまったが、半兵衛はこれを拒否。翌年には龍興に城を返し隠遁した。
その後秀吉の執拗な勧誘に折れ、永禄十年にその与力となる。秀吉のもとで軍師としてその力を遺憾無く発揮し、その名を高めた。
秀吉が中国征伐の主将を命ぜられると、これにも従軍。その参謀となって大いに活躍し、播磨福岡城、備前八幡山城を説得して味方とした。
しかし播州三木城包囲攻めの最中に、付城の平山城の本陣において発病。
秀吉の勧めで京都へ療養に赴いたが、回復の望み無しと悟り、「陣中に没する事こそ武士の本懐」と言って戦場に戻り、天正七年六月十三日に平山の陣中で没した。三十五歳。
妻:安藤守就の娘
父:竹中重元
子:重門
兄弟:重矩(弟)
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