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千利休(せんのりきゅう) 千宗易 1522〜1591 |
わび茶の大成者。通称・与四郎。千宗易。堺の町衆。田中与兵衛の子として堺今市町に生まれた
十代から茶の湯を好み武野紹オウに入門してわび茶を学んだ
天文年間から宗易(そうえき)あるいは抛筌斎(ほうせんさい)を号して茶会を開いた記録が残り、それによると村田珠光好みの茶碗を使い、禅僧の墨跡を掛けるなど、堺の町衆が唐物中心の名物を重んじたのに対し、独自のわびの主張がうかがわれる
四十代の後半、一時家運が傾いたとみられるが茶匠としての名声は次第に高まり、織田信長が堺の名物狩りを企てたときにはその命により茶を点て、その後信長の茶堂として三千石で抱えられたと伝えられる
天正十年、信長の没後は豊臣秀吉に仕え、山城国山崎に二畳敷の茶室を秀吉のために造った
天正十三年、正親町天皇に茶を献ずる禁中茶会が開かれ、利休居士号が勅賜されたとされる
天正十五年十月、九州から凱旋した秀吉はその示威として北野神社境内に大茶の湯を計画し、利休は采配を振るった
当時の利休は秀吉の非公式な側近として非常な力を持っていたが、次第に堺の重要性が薄れるにともなって政治的な立場は弱体化していった
天正十七年、大徳寺聚光院に逆修の墓を建て、また大徳寺の春屋宗園・古渓宗陳に深く帰依していたところから同年十二月に父の五十回忌の法要を営むにあたって大徳寺の山門の修造を寄進した
このころから秀吉としだいに疎遠になり、天正十九年、大徳寺山門上に置かれた利休木像が問題化して同年二月二十八日、京都の自邸で切腹を命じられて果てた。七十歳であった
利休の茶は師の武野紹オウの茶を徹底し、草庵風の極小の茶室を設計し、生地の美しさを生かした竹や木の道具を作り、楽長次郎を指導してわび茶のための茶碗を焼かせるなど、茶道具の創造に画期的な働きを示し、点前の型をつくり厳格な茶の湯の様式を完成した
しかし、その茶風は厳格に過ぎてしだいに世間の風と離れたことも切腹の遠因となった
妻・宝心妙樹との間に道庵をもうけたが、後妻・宗恩の連れ子・少庵によって千家が継承された
妻:宝心妙樹(先妻)、宗恩(後妻)
父:田中与兵衛
子:道安、少庵、紹二、万代屋宗安(娘婿)
兄弟:?
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