高橋鎮種(紹運)の長子。母は斎藤鎮実の娘。幼名・千熊丸。統虎、鎮虎、宗虎、左近将監、羽柴侍従など数々の名を称す。
天正九年、豊後・大友氏の家臣・立花鑑連(道雪)の娘・立花ァ千代を妻とし、婿養子となって立花姓を名乗る。
同十三年に道雪が死去すると家督を相続して立花城の城主となった。
翌十四年に島津勢が実父・紹運の守る岩屋城を落とし、立花城は包囲されたが、城を死守する。翌年には島津勢の豊後への移動に際してこれを討ち、豊臣秀吉から感状を与えられた。
島津氏の降伏後、秀吉から筑後十三万石を与えられ大友氏から独立。羽柴の姓を名乗り柳河城主となった。
その後、小田原征伐、朝鮮の役にも出陣。朝鮮の役では加藤清正を救う等して武名を高める。元々勇猛で知られ、秀吉により、「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と言われた人物。
慶長五年の関ヶ原の戦いにおいて西軍に属し大津城を攻略した。西軍敗北の報を聞き、九州に引き上げる途中、同じく引き上げる島津義弘と出くわし、協力して領国に引き上げた。
西軍敗北のため所領を奪われ浪人したが、加藤清正に厚遇され、同九年に徳川家康に仕え、奥州・棚倉城に一万石で封じられた。
大坂の陣では徳川方に属すこととなり、戦功をあげた。元和六年に悲願の柳河城に十万石の大身で見事に返り咲く。
同十四年の島原の乱にも出陣。老いてもなお武勲を立てている。同年十一月に江戸・下谷で病死。七十六歳。
妻:立花道雪の娘(離別)
父:高橋鎮種、立花道雪(養父)
子:忠茂(養子)
兄弟:高橋直次(弟)、妹四人
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