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北条早雲(ほうじょうそううん) 1432〜1519 |

伊勢新九郎長氏、盛時、氏茂、早雲庵宗瑞。
早雲自身は伊勢氏を名乗り、北条氏を名乗るのは二代北条氏綱の時。出自は不祥で一介の素浪人説が流布し諸説あるが、室町幕府政所執事伊勢氏の一族とみる説が有力。出身は備中説と伊勢説があるが備中説が有力。 通説では永享四年(1432年)備中荏原庄に生まれる。父は伊勢備前守盛定(貞藤)、母は伊勢貞国の娘。
応仁の乱以前には京都で足利義視(義尋)に仕え、義視に従って伊勢に下る。後に妹を頼り、駿河今川義忠の食客となる。義忠の討死後の今川氏家督争いを調停、妹の子・今川氏親に今川の家督を継がせた。その功で駿河東部の富士下方十二郷を与えられ興国寺城主となる。
その後伊豆に攻め入り、堀越公方・足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城を本拠として自らは出家。家督を嫡子・氏綱にゆずった。
また大森藤頼の小田原城を攻略する際に鹿狩りを名目に相模領内に兵を入れ、牛千頭の角に松明を結びつけて小田原城を夜襲して奪うという奇策を用いた。
小田原城主に氏綱を置き、扇谷上杉・山内上杉の家臣に反乱を起こさせ両上杉氏の勢力を衰えさせた。
そして相模東部に進出し鎌倉を掌握。岡崎城の三浦義同を落とし住吉城を抜いて義同・義意父子を新井城に攻めて滅ぼし相模一国をほぼ平定する(新井城の戦い)。その後玉縄城を築いて、三年後に八十八歳で韮山城において死去。
早雲は古典や歌道にも通じており、「早雲寺殿二十一ヶ条」や「十七条の国法」を作ったといわれる。
妻:小笠原備前守政清娘、葛山備中守維貞娘
父:伊勢盛定(貞藤)
母:伊勢貞国娘
子:氏綱、氏時、氏広(葛山家)、氏綱
兄弟:伊勢貞守(兄)、伊勢弥次郎(弟)
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