越後守護・上杉房方の子、幼名・孔雀丸、通称・四郎、安房守、関東管領を務めて、足利学校や金沢文庫を再興した、従兄弟の関東管領・上杉憲基の養子となり鎌倉へ下る、憲基の没後に十歳で関東管領に就任、上野・伊豆の守護となった、足利義教が将軍になると、関東公方・足利持氏が挙兵しようとするが諫止する、その後の鎌倉府と幕府との関係改善に尽力、しかし持氏との関係が悪化し、関東管領職を辞任、その後持氏の憲実討伐軍を幕府の支援を得て武蔵分倍河原で破る、幕府の命で持氏を攻め自害させた、戦後、弟・上杉清方に家督を譲り、伊豆・清寺で出家し「雲洞庵長棟高岩」と称す、結城氏が持氏の遺児を擁して挙兵すると幕府の復帰命令でやむなく出陣、その後、再び隠遁した、嘉吉の乱後に幕府からの関東管領復帰命令を拒み、諸国遍歴の旅に出て、長門国大寧寺で死去
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