父は山本図書(帯刀左衛門)、源助貞幸、山本道鬼斎、三河・牛窪城主牧野右馬允の家来・大林勘左衛門の養子となって、勘助と号した。諸国を巡歴し、武を練り兵学を学び一時毛利氏や尼子氏にも仕えたといわれる。三十五歳の時、大林家にもどってきたが男子が生まれており縁を切り山本姓に戻す。
再び諸国漫遊に出て関東を歴遊し、相模に行って北条氏康、上杉憲政、真田幸隆を訪問したりしている。その後、故郷の駿河に帰り、今川家仕官に望みをかけ数年間駿河にいたが諦める。その後板垣信形の推薦で武田晴信に仕えた。
晴信が行った北信濃の豪族村上義清の戸石城攻めに従軍し苦戦に陥ったとき、勘助が信玄に武田軍が陽を背負う陣形にする作戦を進言し、劣勢を挽回して村上軍を打ち破った。この戦法を”日取りの作戦”と呼んだという。
勘助は常に信玄の懐刀となって軍功を立て「武田流兵法」として後世にまで名を残した。越後の上杉謙信と戦った”川中島の合戦”では、決戦に先駆けて海津城を築く。そして、四回目の川中島合戦で、有名な”啄木鳥の戦法”をとる。しかし、この戦法は謙信によっていち早く察知され、勘助をはじめ武田軍は作戦の失敗からくる綻びを収拾しようとつとめたが、信玄の弟信繁が討たれ、ついには勘助も討死を遂げた。
勘助の容貌は目と足が不自由で、指も満足になく色黒で大変な醜男といわれている。
妻:?
父:山本図書(帯刀左衛門)
子:勘蔵、信共
兄弟:成行(弟)、美濃(弟)、帯刀(弟)
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