織田信長の家臣。通称・権六。修理亮。末森城主。
前半生は不明。元は信長の弟・信行に仕え、織田家当主に信行を擁立しようと画策し、弘治二年の稲生合戦で敗れ、信行とともに剃髪し信長に降伏した。
しかし信行の陰謀はやまず、これを信長に密かに告げ、信行は誅殺される。その後は信長に仕えた。
以降織田軍の中核として信長の上洛戦や六角氏との戦い、浅井・朝倉戦、長島一向一揆征伐、越前国一向一揆征伐等、信長の主立った戦に歴戦。
元亀元年の六角氏との戦いでは、長光寺城を包囲されて水手を絶たれたため城内が水不足となった。勝家は残りの水瓶を打ち割って必死の志を示したため城兵が奮起し六角勢を蹴散らした。この一件で世に「瓶割り柴田」あるいは「鬼柴田」と呼ばれた。
天正三年、越前の内四十九万石を与えられて、北ノ庄に壮大な天守閣を持つ城を築いた。その後は前田利家・佐々成政らを与力として北陸経略を行い、加賀を平定、越中へも勢力を伸ばした。
信長の死後、清洲会議で後継者をめぐって羽柴秀吉と対立。しかし秀吉に主導権を握られ、北近江三郡を入手するにとどまる。
清洲会議後は織田信孝と結び、信長妹・お市を妻として巻き返しをはかり、天正十一年、信孝・滝川一益らと呼応して秀吉打倒の兵を挙げ北近江へ進出。岐阜城の信孝を攻めの最中から急遽引き返した秀吉と賤ケ岳で戦うが敗北。その後秀吉軍の追撃を受けて居城の北ノ庄城にて妻のお市の方と共に自害した。
享年には六十二歳、五十八歳、五十七歳の諸説がある。
妻:織田信長の妹お市
父:柴田土佐守義勝?
子:勝豊(養子・譜代渋川八左衛門の子)、勝政(養子・姉の三男)、勝久(養子・姉の五男)
兄弟:姉
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