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![]() 水堀と土塁 難波田氏は武蔵七党の一つである村山党に属する金子氏の一族で、難波田氏の祖・金子高範に難波田の地が与えられ、その子孫が鎌倉時代に館を構えて地名を名字として名乗った。
室町時代中期には扇谷上杉氏の重臣として台頭した難波田善銀(憲重)が、武蔵松山城代をつとめていたほど勢力があった。 北条氏綱の武蔵進出により江戸城を奪われた扇谷上杉朝興は、善銀とともに享禄三年(1530年)と天文二年(1533年)に江戸城奪還を試みるが失敗。 朝興の子・朝定が家督を継ぐと、善銀は朝定の命で深大寺城を再興し、北条氏との戦いに備えるが、河越城を攻め落とされ、朝定は善銀の籠もる松山城に逃れた。 しかし天文十五年(1546年)の河越夜戦で朝定は討死し、善銀は東明寺の古井戸に落ちて命を落としたという。 河越夜戦の勝利をきっかけに武蔵国の支配を確立した北条氏により、難波田の地は鶴間、水子とともに上田左近の知行地になる。上田左近は松山城主であった上田氏の一族と考えられる。 一方、難波田氏の一族は北条氏の家臣となり、棟岡(志木市)や池辺(川越市)を知行地として与えられた。 天正十八年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めで難波田城は廃城となった。 ちなみに前田利家の軍勢と戦った松山城籠城兵の中に、善銀の孫で家督を継いだ難波田憲次も含まれている。憲次の子・憲利は幕府に召抱えられ、旗本となった。 |
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【 場 所 】 埼玉県富士見市下南畑568−1 【開館時間】 午前9時 〜 午後6時( 【休 園 日】 なし 【入 園 料】 無料 【交通案内】 東武東上線鶴瀬駅東口から市内循環バス「難波田城公園入口」下車徒歩2分 「興禅寺」下車徒歩7分 難波田城公園・難波田城資料館ホームページ ![]() |
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水堀と土塁 難波田城は、三重の堀と土塁に囲まれた平城だった。 |
本城門 本城入口の門。冠木門といわれる形。 |
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難波田氏館跡碑 本城門をくぐると難波田氏の館跡があった場所に石碑が建っている。 |
難波田直次郎の墓 難波田直次郎の経歴は調査できず。 |
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追手門 冠木門に屋根をかけた棟門と呼ばれる形式の門。 |
復原木橋 発掘調査で出土した橋脚をもとに復原した木橋。 |
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