金山実城跡

 金山城は保元二年(1157年)、源義家の嫡孫にあたる新田義重が要害城として築いたのが始まりとなります。しかし新田義貞が南朝について敗北すると廃城となりました。
 その後、文明元年(1469年)に岩松(新田)家純が重臣・横瀬(新田)国繁に命じて再築し、国繁が城代となります。のちに古河公方・足利成氏に攻められるが落城せず、名城として名を高めました。
 次第に勢力を強めた横瀬氏は、泰繁の代の享禄元年(1528年)、主家・岩松昌純を滅ぼし、姓を由良氏に改め金山城主となります。
 このときの由良氏による金山城増強により、堅堀が作られ、土居や腰曲輪を整え、石垣を大量に用いた本格的城郭となりました。
 由良氏はのちに古河公方に属したため、金山城は上杉謙信、北条氏政、武田勝頼に攻められましたが落城しませんでした。
 その後、由良国繁は北条氏直の謀略によって小田原城に拘留され、金山城は北条氏邦と成田氏長の連合軍に攻められましたが落城しませんでした。しかし国繁の母・由良輝子が息子の一命を案じて和議の使者を差し出し、難攻不落の金山城はついに北条氏の軍門に下ります。北条家臣・清水康英が城代として入り、由良氏は桐生城に退きました。
 豊臣秀吉の小田原攻めに由良国繁は北条方として小田原城へ派兵しましたが、輝子は孫の由良貞繁を大将とした軍を豊臣方に差し出し、鉢形城や八王子城攻めに活躍します。戦後、この輝子計らいで国繁は助命され、常陸牛久に転封されました。
 金山城はその後廃城となり、明治六年、天主曲輪に新田神社が創建されました。


【 場 所 】 群馬県太田市金山町40-98ほか
【交通案内】 東武伊勢崎線太田駅北口から西城まで徒歩約1時間
         太田駅からバスの場合は呑竜下車、徒歩40分

金山城地図

金山城公式ホームページ

西城跡

実城より西の尾根伝いにいった場所にある城郭跡。

旧通路

地山を削り出して作られた通路を復元したもの。

西矢倉台下堀切

西城から実城に向かう間にある堀切。規模は小さい。

馬場下通路

土橋から石敷き通路を望んだところ。石垣の向こうに石敷きの馬場下通路がある。

大手馬場跡

馬場下通路の上には大手馬場跡があり、そばには物見台がある。

物見台から望む

物見台から東山方面を望む。上杉謙信もこの物見台を避けて布陣したという。

月ノ池

上下二段の石垣で囲まれた池。谷斜面からの表流水や浸透水が溜まるようになっていた。

大手虎口

大手虎口から見た大手石垣通路。

北下段曲輪

石垣などが崩れないように、雨水を排水する構造となっている。

日ノ池

山城では稀な大池である日ノ池は、金山城の象徴的施設。戦勝や雨乞いなどの祈願を行ったと考えられている。

新田神社

天主曲輪(本丸跡)にある新田神社

南上段曲輪

建物は湿気を防ぐために基礎が石垣になっており、武器庫を兼ねた兵の詰所であったといわれる。


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2007.2.11撮影
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