黒門(本丸御門)

岩槻城は1457年(長禄元年)に扇谷上杉持朝が家宰の太田道真・道灌親子に命じて築城させたといわれる。同時に築かれたのが川越城と江戸城である。

その後も太田氏が城主となり1525年(大永五年)に小田原北条氏によって一旦占領されるが、1531年(享禄四年)に奪還。武蔵諸城が北条氏の勢力下に入る中、太田氏は孤軍奮闘を続け、1564年(永禄七年)に北条氏に属すようになる。その後1590年(天正十八年)に豊臣秀吉の北条攻めで落城した。

徳川家康が江戸に入部すると、岩槻城には徳川譜代の家臣である高力清長が二万石で入る。その後は江戸時代中期まで幕府重職である青山氏・阿部氏・板倉氏・戸田氏・松平氏・小笠原氏・永井氏などの老中格が在封した。大岡忠光が入封してからは、幕末まで大岡氏が八代にわたり在封した。

1871年(明治四年)に明治政府による廃藩が行われ、城は後の陸軍省の管理されることになり、翌年入札が行われ民間に払い下げが行われた。その後廃城とされ、城跡は公園として整備されている。


【 場 所 】 埼玉県さいたま市岩槻区太田4−3
【開館時間】 岩槻城址公園駐車場は9:00〜21:00
【入館料】 無料
【交通案内】 東武野田線岩槻駅から徒歩15分


岩槻城址公園地図

搦手門

黒門と呼ばれていた本丸御門(写真上)は、戦前まで県庁・知事公舎の正門として使用されていた。
搦手門(写真右)は、有山家から寄贈された。

土塁と空堀

土塁と空堀が残っており散策道となっている。この道には堀障子が設けられており、小田原城・山中城と同様に北条氏特有の築城技術であることがわかる。

白鶴城址碑

太田道灌がこの地を視察したときに、二羽の丹頂鶴が舞い降りたため、吉兆とみてこの地に城地を定め、「白鶴城」と名付けた。


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2005.4.17撮影
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