(通称・千代田城)

天守閣跡

 江戸城は保元年間(1156〜58)、鎌倉時代に武蔵国最大の実力者として栄えた秩父氏の一族・江戸氏が築いた館が最初といわれている。
 江戸氏の衰退後、長禄元年(1457)に扇谷上杉氏の家臣・太田道灌が古河公方・足利成氏の南下を防ぐために築城し、江戸城の原型が出来上がった。その後、大永四年(1524)に北条氏の攻略によって奪われ、北条氏滅亡まで支城となる。
 天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏は滅亡し、徳川家康がその旧領である関八州に移封され、居城ととした。
 家康の入府時には応急修理がなされた程度であったが、家康が征夷大将軍に任じられた以降、本格的な築城を開始し、二代将軍・秀忠、三代将軍・家光の時代に拡大整備され、寛永十三年(1636)に大城郭が完成した。
 しかし明暦三年(1657)江戸の大火(「振袖火事」)で天守は焼失し、江戸の大火はその後も頻発。天守はついに再建されなかった。
 慶応三年(1867)に十五代将軍・徳川慶喜の大政奉還によって江戸城は無血開城し、明治元年(1868)に明治天皇が入城し「東京城」と改めた。明治四年(1871)にはほとんどの建物が打ち壊され、わずかに残った櫓や門、石垣なども関東大震災で消失した。

 江戸城の内城域は、現在の東御苑にあたる本丸・二の丸・三の丸からなる本城と、現在の宮内庁・皇居新宮殿は西城に分かれている。
 皇居外苑に含まれる濠及び宮内庁管理の東御苑の一部などが、特別史跡江戸城に指定されている。


【 場 所 】 東京都千代田区千代田
以下、皇居東御苑の内容
【開館時間】 9:00〜16:30(夏節3月〜10月まで)
         9:00〜16:00(冬節11月〜2月まで)
【休 園 日】 月曜日・金曜日および12月28日から翌年1月3日まで
         (ただし天皇誕生日以外の「国民の祝日等の休日」は公開。
         また休日が祝日に当たる時には翌日)
【入 園 料】 無料
【交通案内】 大手門:地下鉄大手町駅より徒歩3分
         平川門:地下鉄竹橋駅より徒歩1分

江戸城地図

皇居外苑ホームページ

大手門(高麗門)

大手門は標準的な枡形門であり、高麗門の入り口は狭く造って敵が一気に攻め込めないようにしてある。

大手門(渡櫓門)

高麗門から右に折れ曲がった場所にある渡櫓門。枡形虎口に閉じ込めた敵を攻撃するために、鉄砲・弓・持弓・持筒・長柄槍が常備されいた。

大手門の鯱

戦災で焼失した大手門渡櫓門の屋根に飾られていた鯱。

同心番所

同心の詰所で、大名の共の監視にあたっていた。

百人番所

鉄砲百人組と呼ばれた甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組が昼夜交代で詰めていた。

富士見櫓

現存する唯一の三重櫓。明暦の大火で焼失した天守閣の代用として使われた。普段は裏側からしか見れない。

汐見坂

本丸と二の丸をつなぐ坂道。当時はこの坂から海を眺めることができたという。

松の大廊下跡

江戸城中二番目に長い廊下で、浅野内匠頭が吉良上野介への刃傷事件があった場所。

富士見多門

防御を兼ねて石垣の上に設けられた長屋造りの倉庫。多門長屋とも呼ばれる。

平川門(渡櫓門)

竹橋門より侵入した敵を撃退できるように平川濠に伸びた細長い城郭を持つのが特徴。

不浄門

城内の罪人や死人が出るとこの門から外に出されたため、不浄門と呼ばれる。

太田道灌公追慕之碑

江戸城虎ノ門の枡形の一部をもって材としたという太田道灌追慕の石碑。

北桔橋門

大田道灌の時代は、城の大手であったといわれる。今残るのは高麗門のみ。

清水門

浅野長晟によって建てられた枡形の城門。常時通行可能だが、かなり荒れている。

田安門

はじめ田安大明神があったので田安門といわれるようになった。日本武道館のすぐそばにあり、常時通行可能。

諏訪の茶屋

もともと吹上の庭に建てられていたが、明治時代以降、赤坂仮皇居→吹上御苑→皇居東御苑へと移築された。


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2006.8.5撮影
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